競技会の審査基準はどうなっているの?


 2000年2月6日、競技会を見た。D級戦モダン種目(ワルツ)で所々でリズムを外して踊っているカップルがいた。インピタスターンの後にプロムナードポジションになって次のステップに進むようなときに、音楽の間を保てなくて、技術的にはバランスを保てずに踊っている。
このカップルは初戦から頻繁にリズムをはずして踊っていたのだが、二次予選、三次予選と何度も勝ち残った。十数組が踊るフロアでリズムを外したカップルがいると視線が自然にそちらに向いてしまうものである。審査員が気がつかないはずはないと思うのだが勝ち残るのである。D級といえば競技選手である。音楽のリズムを外すなどと云うのは論外と思うのだが、どうして残るのかなー、何がよいのかなーなどと審査の視点が理解できないと友人と話し合いながら観戦した。
 この日の収穫は、審査のウエイトが音楽に土台をおいたものでないことだけはよくわかった競技会であった。                   
(2000,2,6. 大阪にて)

N級戦を観戦して思うこと

 1996年5月、ノビス級の競技会を観戦したときのことである。競技会の審査がおかしいのではないかと思う場面があった。
カップルとしてのバランスは比較的良く、動きもこのクラスとしては取り立てて悪くはないと思われる40歳代のリーダーとする組であった。
リーダーの背の高さは約170センチほどであろうか、姿勢が綺麗であった。しかし、このカップルは初戦の一曲目の最初からその試合の終わるまでにとどまらず、3回戦までリズムに合わずに勝ち残ったのである。
誰が見ても音楽に合っていないことは一目瞭然である。素人の私でさえ気の付くほどである。それにもかかわらず勝ち残るのは明らかに審査員の審査基準が私のものと根本的に異なっていたからに他ならない。
複数のプロの審査員が審査しているのであるから音楽に合っていないことを見逃すはずはない。当日の審査員は、音楽に合って踊るよりも見た目の美しさや技術的な観点を重視する審査を選択したのである。はたして審査の在り方はそれでよいのであろうか。
 何度も競技会に出ていて審査員に顔を知られているからとか、審査員の生徒であるとかの温情審査であれば論外である。今、目の前で演じているものが審査の対象であり、それがカップルの実力である。ダンスは、音楽のリズムに体の躍動感が自然に伴って足や体を動かすことから発生したものである。これがすなわち「踊る」ことである。この前提に立ってダンスをみると、音楽のリズムに合わないものは最初に排除されるべきである。
 しかしながら、当日の審査員は単調な三拍子のリズムにさえ合っていないカップルを3回戦まで残した。さすが準決勝や決勝戦まで残すことはしなかったが、当日の審査は競技会での審査の在り方について教訓を残したと言って良い。音楽のリズム感を重視するかあるいはダンサーとしてのポスチャーや技術を重視するかの選択では後者を選んだのである。前述したように、ダンスは音楽に合わせて踊るのが第一義的なものである。スタイルを重視する技術偏重の審査は本末転倒であるといってよい。
 ノビス級戦と言えばこれから競技選手として登録できるかどうかの入学試験のようなものである。音楽を重視しない者は競技選手としての資格がないと行って良い。
 今後良い競技選手が輩出するか否かは競技審判員の感性と眼と経験に頼るしかないが、その審査の在り方は審査員の質的な問題に加え、ダンス教室での教師の指導の在り方にも大いに関わってくるかもしれない重要な問題をはらんでいる。
 教室での指導が音楽よりも技術偏重であれば、今後、人を感動させるような優秀な選手が輩出することは難しいであろう。競技ダンスがダンスを愛好する者の中だけで行われるのであればそれでよいのかもしれないが、ダンスを知らない一般の人が競技ダンスを見たときに音楽を無視して動いている選手が勝ち残っているとしたら何と映るであろうか。ダンスは今やダンス愛好者の閉鎖社会のものではない。一般社会から認知されるためには良い選手を輩出し良質の踊りを展示することが必要である。それがダンス界の念願であるオリンピックへの参加へと連なっていくことではないのだろうか。競技審査員の猛省を望みたいものである。
(May,1996.大阪にて)