教師の在り方

Nov.1998

 ボールルームダンスをオリンピックの種目に加えようとして関係者が奔走している昨今である。
 競技ダンスのテレビ中継を見て華やかさにうっとりと見取れたり、あのように踊ってみたいと憧れたりする人が増えた。いま、ダンス界はオリンピックに向けて夢を現実のものにしようとしている。今年のアジア大会は公開種目として競技ダンスが取り上げられた。
 それは地道な関係者の努力の賜であろう。その中にあって、ダンス界の発展のために最前線で地道に且つ着実に役目を担っているのがダンス教師である。ダンス教師の果たす役割と責任は極めて大きいといえるのではないだろうか。
 ダンス界はダンスの普及発展のために質的向上を目指して更に努力が必要に思う。
 ダンス教師の中には必ずしも高邁な思想で生徒を教育しているわけではなく、生活の糧としてダンスを教えている人が多いのである。だからといって質的に高いものを望むのは無理なのでしょうか。世間一般のダンスに対する認識は必ずしも高くはない。今でこそチークダンスなどと言うのは高齢者か教養のない人の使う言葉だと思うが、潜在的には男女で踊るというダンスの性格から忌まわしいイメージがつきまとっている。
そこでダンス界の更なる発展のためにダンス教師の皆さんに若干の苦言を呈したいと思う。

1 ダンス教師の教授方法がアカデミックでない教師が多いように見えること。
  バレーや楽器の練習には一定のカリキュラムがあって、生徒が漸進的に成長するようになっているが、ダンスにはそれがはっきり見えてこない。漸進的にダンスを覚えるための教本が市販されていないことがそれを物語っている。市販のダンスの教則本は、アレックスムーアの「ボールルームダンス」の日本語に焼き直したステップの解説本のスタイルが多い。
  生徒の方にも問題がある。ステップを覚えると生徒はダンスを踊れるようになった錯覚があることである。そのために難しいステップに走り体使いやシェィプに気を向けない。それが進歩を妨げたりしている現状を肯定して教えるところに問題が潜んでいるように見える。また、生徒の個性や覚えかたにもよるが、先生の教え方が一貫していないことにも問題がある。例えば、前回教えたことをすっかり忘れて新しいことを教えている。

2 生徒のニーズを見極めず教えていること。
  生徒は学び方によって潜在的な能力を発揮するものである。教師の中には本人の能力以上の難しいステップを教えたりして、正しい体使いや足運びをあまり教えない教師がいることである。自分に知識がなくて教えていないのか、教えられないのか判らないが、体系的でなかったり、自分の知識の切り売りをしている教師がいる。生徒はいろんな可能性がある。教師は自分を超えられてこそ存在の意義があるのである。個人レッスンでは個々のニーズを見極めて個性を伸ばすように漸進的に教えてほしいものである。

3 教授時間を如何にサボルかを考えているように見えること。
  教師は肉体労働者である。昼から夜遅くまで体を使って生徒に教えている。だから少しでも体を使わない様にレッスンをすることに腐心している。レッスン時間になっても控え室から出てこないし、レッスン時間を少し早く切り上げて終了し、レッスンチケットはしっかり取るのである。
競技選手であれば外国に留学したことがあるものは判るであろうが、外国でレッスンを受けるときの時間の正確さは憶えているはずであるのに、自分の教室ではルーズになっている。違和感を感じないのであろうか。時は金なりである。レッスン料は決して安くはないのである。時間的にも内容的にも手を抜かないでほしいものだ。

4 社会的地位向上に努力してほしい。
  教師の一部には、「教師」とは名ばかりで、生徒とただ踊ってレッスン時間を費やす者や、ホストやホステスと実態的には違わない者も多いと聞く。生徒がそれで満足であればそれでも構わないが、彼らを「ダンスの教育者」としての教師と同義にとらえられることに一寸疑義を感ずる。
今年はダンス教室が風俗営業法の対象除外となった画期的な年である。ダンス界がダンスをオリンピック種目とするようにと高邁な理想に向かって努力している反面、身近なところで営業中心の知的で品性のない「教師」がダンス界の足を引っ張っているような気がしてならないのだが、これは私だけのひがめでしょうか。

(Nov.1998)