(その2) |
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| 年月 | 日本 | 諸外国 | |
| 1910 | 英国でボールルームダンスが成立した。 | ||
| 1913 | バーノン・キャッスル夫妻がフォックストロットを踊り、欧州で一大流行する。 | ||
| 1918(T 7), | 鶴見の花月園にダンスホールが開設された(職業的ダンスホールの始まり) | ||
| 1920(T 9), | 横浜鶴見「花月園」内に日本初の営業ダンスホール(同伴制)が開場した。 | ||
| 1921(T10), | エリアナ・パブロバが横浜でダンスの教授 | ||
| 文化学院で「明星舞踏会」結成 | |||
| 社交ダンスが流行・一般化はじまる | |||
| 1921(T10), | 教則本が刊行された(鈴木四十「社交ダンス」十字屋楽器店) | ||
| 1922(T11) | 最初の世界選手権がロンドンのクイーンズ・ホールで開催された。 | ||
| 1923(T12), | 関東大震災によって東京の倶楽部組織壊滅した。ダンスの中心は神戸や大阪などの関西方面に移った。 | ||
| 震災で復興した東京や大阪では、カフェーやバーでダンスが踊られ始めた。 | |||
| 1924(T13), | 警視庁は飲食店でのダンスを通牒で禁止した。ダンスホール経営の専業化がはじまる | ||
| 大阪のダンスホールでチケット制が導入された | |||
| 帝国ホテル舞踏会に、壮士が乱入した | |||
| 1925(T14), | 東京・大阪でダンスが大流行した。 ダンスホールが増加した。 |
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| 警視庁「舞踏ホール取締ニ関スル件」 | |||
| 1926(T15), | 衆議院に「社交舞踏取締法案」が提出されたが、審議未了で廃案となる。 | ||
| 1926(T15),12, | 大正天皇崩御の号外がでたが、大阪の舞踏場はクリスマスパーティで混雑していたためこれに気づかずに踊ったため、大阪府警察部は電話で各署に一斉禁止の指令を命じ、大阪では第二次大戦終結までダンス場は禁止となった。大阪の人は踊る場所を求め、隣の兵庫県まで出かけてダンスをした。 | ||
| 1927(S 2), | 英国ICBD(国際社交ダンス審議会)のオフィシャル・ボードがダンス理論のルールを発表 | ||
| 1927(S 2), | 大阪のダンスホール営業禁止 | ||
| 1927(S 2), 3, | 東京市内の数カ所にダンスホールが復活を契機にダンスの中心は再び東京に戻り、第二次大戦の直前まで続いた。 東京駅八重洲口に「日米舞踏場」が開業した。 ユニオンが開業した |
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| 1928(S 3), | ダンスホール開設ラッシュ、「黄金時代の到来」 | ||
| 警視庁「舞踏場取締規則」(「庁令」) ホールは営業許可になり業界の淘汰が起こる |
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| ダンス教則本の発行相次ぐ | |||
| 1929(S 4), | ダンスが大流行 | ||
| 東京市内は「フロリダ」ほか8大ホールの時代へ | |||
| モボ・モガの文化→新聞雑誌による注目 | |||
| 1930(S 5), | 日本舞踏教師協会(JATD,玉置真吉会長)が結成・創立された。 | ||
| 阪神国道沿いにダンスホール林立した | |||
| 「宝塚開館」オープンした | |||
| 1931(S 6), | JATDによるダンス教師資格試験始まる | ||
| ダンス教授所の開設ラッシュ | |||
| 大陸に日本人経営のダンスホールが開業 | |||
| ダンスホールでダンサーや従業員の労働争議がおきる | |||
| 1932(S 7), | 雑誌『ザ・ダンス』が創刊された | ||
| 1933(S 8) | ダンス教授所急増した。警視庁は「舞踏教授所及舞踏教師取締規則」をつくり、ダンス教師を許可制にした。教授所の淘汰が起きた。 学生の入場が禁止された。 |
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| 「第一次桃色事件」→新聞雑誌のスキャンダラスな報道 | |||
| 雑誌『モダンダンス』(後に『ダンスと音楽』に改題)が創刊 | |||
| この頃、全国にダンスホール約50、ダンサー約3000人 | |||
| 1935(S10) | ビクターシルベスターがテンポを一定としたダンス専門オーケストラを結成した。 | ||
| 1936(S11),10, | Alex Mooreが「Ballroom Dancing」を発行。 | ||
| 1936(S11), | 「第二次桃色事件」→都内ホール一斉営業停止処分 | ||
| 1937(S12), | 国民精神総動員計画→ダンサーは愛国婦人会・国防婦人会に | ||
| 内務省ダンスホール閉鎖方針発表 | |||
| 1938(S13), | 「全日本舞踏場聯盟」結成・自粛営業 | ||
| 般女性客の入場禁止・パーティーの廃止 →営業不振、ホールの閉鎖相次ぐ(東京市内のダンサー半減) |
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| 内務省閉鎖延期を発表、風紀取締強化 →家庭内のダンス禁止(お客を家庭に招待してのダンスパーティ禁止) |
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| 1938(S13),12,20 | 重慶政府/官吏のダンス禁止 | ||
| 1939(S14), | 東京のダンス教習所が閉鎖 【東京警視庁の統計:東京のダンスホールは8カ所、ダンサーと従業員が計362名、楽士が109名、昭和14,10,31現在】 |
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| 1940(S15), | 鹿鳴館解体 | ||
| 「7・7禁止令」娯楽産業規制強化 | |||
| 1940(S15),10,31 | 戦争中は華美なダンスはまかりならぬと日本全国にダンス禁止令が出され、第二次大戦終結まで活動停止が続いた。 | ||
| 1940(S15),11, 1 | ダンス禁止令施行。国内のダンスホール閉鎖 朝日新聞「今宵かぎりのステップ」とダンスホール閉鎖の記事掲載 |
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| 1941(S16), | 「満州」のダンスホール閉鎖 | ||
| 第二次世界大戦→上海のダンスホール閉鎖 | |||
| 太平洋戦争 | |||
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ボールルームダンスの資料室
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